「文学」を触発する街
大木 : 生活と文化のテーマに非常に即したお話ですが、吉見さん、変遷ということで。
吉見 : きむらさんのおっしゃっていた「文学」は、すべての人間の中にあると思っています。下北沢であれどこの街であれ、すべての生活の中に「文学」があると思います。これを文学者、アーティスト、作者、監督は可視化する。あるいは違う視点から物語をトランスフォームさせるのです。
こうしたことを触発していく街と抑圧していく街があるが、下北沢の特徴は、「文学」を、広い意味でのアートを、触発する力を持っているところです。「街が力を持っている」とは一体何なのかについて、「迷路性」などいろいろな言い方がありますが、僕は、都市というのは人が集まってできる街と箱がつくられて出来る街があると思います。かつての新宿、浅草、今の下北沢は、前者でしょう。いまはそうではない街が多い。箱が与えられて、ひどいときにはディズニーランドみたいに物語まで与えられて、「さあ、いらっしゃい」と言われる。そうすると、人は「文学」を作り出す必要はなくて、ただ消費するだけになってしまう。「文学」が人の内側から出てくる余地がない。そうではない街がいかに作れるのだろうか。
下北沢という街は、いろいろな人や小さいものが集まり非常に無秩序ですよね。都市構造的には村落構造をベースにしているので迷路なんです。そういったところで、ある種の無秩序をベースにしながらそこに物語が発生していくような仕組み。これが、いままである種自然発生的にできている。それは、新宿のような都市計画がなかったからです。
そして今日、道路計画が出てきているけど、「文学」が自然発生していくような仕組みをいかに守って育てていくか、その仕組みをデザインすることを考えるべきです。
大木 : 私も、唐十郎さんの「新宿いまに見ておきゃれ、いまに新宿灰になる」というチラシを手にとって見たことがあります。私は下北沢っ子の前には新宿っ子だったので、そのさなかにチラシを見ました。新宿は行政の手によって管理されて、大型資本も入ってくるようになった。だから、新宿よりも下北沢の方に目を向けるようになりました。街の変貌は宿命なのでしょうか。
岩本 : いきなり箱をつくるのは行政の得意技で、地方でも行っていますよね。僕はこの2、3日、スタッフとしてずっとスズナリにいて、幸せなんです。こういうことをやろうという人が集まって、今日のような場所を持つことができている。だから、箱だけ立派なものがどかんとできても、情熱を傾ける人間が集まらなければただの箱だけが残っているということになる。